大分の文化

文化で綴る大分の風景⑱「漢詩で温(たず)ねる先達の想い2」

2014年02月06日(木)
(2284回)

漢詩とは、一定の音律に調和させて、人の思想を文字に表現したものです。
漢詩は中国文学の中で生まれましたが、大化の改新前後に日本に伝来し作られるように
なりました。
一句が四言、五言、または七言からなるのが普通で、唐の時代の李白、杜甫は有名。
日本漢詩の頂点は、江戸期から明治初期にかけての頃で、朱子学を背景に「文人」と
呼ばれる詩人たちを多く輩出しました。
耶馬渓を訪れたこともある頼山陽の詩は今日も広く詩吟として愛吟されています。
20世紀以降は急速に衰退しましたが、夏目漱石や森鴎外など漢学教育を受けた文化人は
漢詩をたしなんでいます。

人に答う
 
樵蹊(しょうけい)世間と通ぜず
高臥東山謝公と異なる
煙霞(えんか)を占得して吾已(すで)に老ゆ
清風鶴唳(かくれい)白雲の中(うち)
 
               三浦梅園

 
三浦梅園が久留米藩から招聘を受けたときに作った詩。


謝公…中国東晋の政治家。淝水の戦いの戦勝など東晋の危機を幾度となく救った。
   40歳になるまで浙江省の東山という山にこもって、ゆうゆうと寝てくらし、朝廷の招聘に応じなかった。
樵蹊…木こりの通る山道
鶴唳…鶴が鳴くこと

  
三浦梅園
国東市安岐町富清出身の江戸時代の思想家、自然哲学者、経済学者で本職は医者。
条理学と言われる独自の学問体系を築いた「玄語」が有名。
三度旅をした以外は、故郷の国東を離れることはなく、医業の傍ら黙々と思考を続け、梅園塾での門人の教育に当たり、
その余暇のすべてを読書と思索と執筆にささげた。複数の藩主から招聘の声もあったが、断ったという。
地元安岐町に梅園自身が設計した旧宅(国指定史跡)がある。豊後の三賢人の一人。


由布嶽
 
鶴觀(つるみ)の西畔 是れ芙蓉
積石(しせき)巉巉(ざんざん) 霄外(そうがい)に重なる
昨夜殷雷(いんらい) 行雨(こうう)去り
殘雲(ざんうん)凝って 最高峰に住(とど)まる
 
             帆足 萬里


 
積石…積み重なった石
霄…そら、天空のこと
巉巉…険しい山 
殷雷…鳴りとどろく雷
 
帆足萬里
江戸時代後期の日出藩出身の儒学者、経世家。
脇蘭室などに学び日出藩の藩校の教授に任じられ、また日出藩家老として財政改革に行った。
私塾西崦精舎(せいえんせいしゃ)を開いて子弟の教育にあたっている。
著書「窮理通」(きゅうりつう)は日本における自然科学史の画期的な文献である。
西崦精舎とは西方の日の沈む山の学舎のこと。豊後の三賢人の一人。

 

   【筆者紹介】

   足達賢二(あだちけんじ) 

    竹田市久住町出身
    2012年3月まで大分県職員
    大分県中部振興局長、大分県職員研修所長、県民生活・男女共同参画課長、大分県消費生活・男女共同参画プラザ所長などを歴任。
 

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