TREASURES OF HEAD TEMPLE SHOKOKU-JI,KINKAKU-JI AND GINKAKU-JI

金閣・銀閣 名宝

大本山相国寺と

雪舟・利休・等伯・探幽・若冲・応挙
日本美術の名品が一堂に

202211.26

20231.22

12月26日(月)は展示替えのため休展

大分県立美術館3階 展示室B・コレクション展示室

開館時間 10:00~19:00
※金曜日・土曜日は20:00まで(入場は閉館の30分前まで)

[主催] 公益財団法人大分県芸術文化スポーツ振興財団・大分県立美術館、日本経済新聞社 [共催] 大分合同新聞社、OBS大分放送 [後援] 大分県、大分県教育委員会、NPO法人大分県芸振、西日本新聞社、エフエム大分、
J:COM大分ケーブルテレコム、大分経済新聞

本山 相国寺に
守り伝えられてきた名宝

京都の名刹・相国寺は、1382(永徳2)年に夢窓疎石を開山として、室町幕府三代将軍の足利義満が創建した寺院です。幕府・朝廷が定めた「京都五山」という格式ある禅寺の一つで、中世より日本の文化をリードしてきた存在といえます。

本展では、世界文化遺産にも登録されている金閣(鹿苑寺)や銀閣(慈照寺)、大光明寺といった、相国寺の塔頭(小寺院、別坊、脇寺等のこと)を含め、各寺院が所蔵する名宝73件を展示いたします。禅画や墨蹟、唐物や茶道具の他、雪舟、千利休、長谷川等伯、狩野探幽、伊藤若冲、円山応挙、本阿弥光悦、野々村仁清、尾形乾山ら、室町から江戸期の巨匠や、さらには日田市出身の日本画家・岩澤重夫の金閣寺客殿障壁画まで、日本文化が誇る「美」の世界を存分にご堪能いただけるまたとない機会です。

大本山 相国寺に 守り伝えられてきた名宝

大本山 相国寺に 守り伝えられてきた名宝

大本山 相国寺に 守り伝えられてきた名宝

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開催概要

展覧会名 大本山 相国寺と金閣・銀閣の名宝
会期 2022年11月26日(土)~2023年1月22日(日) ※12月26日(月)は展示替えのため休展
時間 10:00~19:00 ※金曜日・土曜日は20:00まで(入場は閉館の30分前まで)
会場 大分県立美術館3階 展示室B・コレクション展示室
観覧料 一般 1,200(1,000)円、大学・高校生 800(600)円
※( )内は前売および有料入場20名以上の団体料金 ※中学生以下は無料
※大分県芸術文化友の会びび KOTOBUKI無料(同伴者1名半額)、TAKASAGO無料、UME団体料金
※障がい者手帳等をご提示の方とその付添者1名は無料※学生の方は入場の際、学生証をご提示ください。
主催 公益財団法人大分県芸術文化スポーツ振興財団・大分県立美術館、日本経済新聞社
共催 大分合同新聞社、OBS大分放送
後援 大分県、大分県教育委員会、NPO法人大分県芸振、西日本新聞社、エフエム大分、
J:COM大分ケーブルテレコム、大分経済新聞

展覧会の詳細はこちら

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の紹介

相国寺

京都の相国寺(正式名称:萬年山相國承天禅寺)は、14世紀後半、室町幕府3代将軍足利義満によって創建された臨済宗の寺です。永徳2(1382)年、 義満の花の御所の東に隣接する広大な敷地において造営工事が始まり、明徳3(1392)年まで続きました。完成まで10年の歳月を要しています。
相国寺の開山(初代住職)は、後世にも広く名を残す博識高徳の僧・夢窓疎石(夢窓国師)です。疎石は既に他界していたが、義満は自らの禅の師で厚い信頼をおく春屋妙葩の進言を受けて、疎石を勧請開山としたと伝えられます。

義満が確立した「五山・十刹の制」では、相国寺は京都五山の第2位(南禅寺を別格に第1位の天龍寺に次ぐ)に列せられました。しかし、五山派を統轄する機関「僧録司」は相国寺に置かれました。このため、相国寺は実質的に最上位の立場で当時の禅宗行政をリードし、さらには幕府の対明貿易と外交を支えました。また多くの名僧・高僧を輩出させるなど、室町時代の禅文化の興隆に大きな役割を果たしています。

応仁の乱(1467年)の兵火により、相国寺の諸堂宇も灰燼に帰しましたが、近世の復興は、入京した織田信長の保護に始まり、豊臣秀吉、秀頼、徳川家康に受け継がれました。慶長10(1605)年、秀頼は現在の法堂を建立し、慶長14(1609)年には家康も三門を寄進。その後も後水尾天皇による開山塔などの再建が続きましたが、天明の大火(1778年)で法堂、浴室、塔頭九院の他は焼失。伽藍の復興自体は寛政9(1797)年から本格的に開始され、文化4(1807)年には桃園天皇皇后恭礼門院旧殿の下賜を受けた再興事業が始まりました。万延元(1860)年までかかり、広壮な旧観を復するに至りました。

臨済宗相国寺派大本山相国寺は今日、金閣・銀閣両寺をはじめ百余の末寺を擁し、歴史の重みをたたえた我が国の代表的な大禅林となっています。法堂(重要文化財)は桃山期の貴重な遺構。数々の寺宝・美術品は寺内の承天閣美術館で見ることができます。

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金閣(鹿苑寺)

金閣(鹿苑寺)

応永4(1397)年、既に将軍職を辞していた足利義満は、なおも自らの権勢を示すかのように雄大壮麗な北山山荘・北山殿を営み、移り住みました。時に40歳。以来、51歳で没するまで義満の政治的文化的拠点となった北山殿は、その死後、遺言によって臨済宗相国寺派の禅寺に改められました。これが金閣(正式名称:北山鹿苑寺)のルーツです。往時から「西方極楽浄土にまさる美しさ」と称された黄金色の舎利殿、謂わゆる金閣は、一層が寝殿造、二層が武家造、三層が禅宗様式という独創的建築となっています。1950年に一度焼失しましたが、1955年に復元。北山文化の象徴として華やかな輝きを今に伝えています。1994年、世界文化遺産に登録されています。

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銀閣(慈照寺)

銀閣(慈照寺)

銀閣は通称で正式名称は東山慈照寺。元は八代将軍足利義政が8年の歳月を費やして造営した東山の山荘・東山殿でありましたが、金閣と同様に義政の死後、その遺言で臨済宗相国寺派に属する禅寺となりました。山荘造営の協力者には相国寺の優れた禅僧たちも加わったといいます。瀟洒な風情でたたずむ銀閣(観音殿)は国宝。同じく国宝に指定されている東求堂の中に残る同仁斎は四畳半書院造りの最古の遺構と伝えられます。室町中期を代表する庭園は西芳寺(苔寺)に倣って作庭されたもの。文人・義政の美意識が色濃く投影された銀閣は、簡素枯淡な東山文化の象徴となっています。1994年、世界文化遺産に登録されています。

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大光明寺

大光明寺

大光明寺は、大本山相国寺の塔頭。山号は梵王山。伏見宮家歴代の菩提寺です。暦応2(1339)年、後伏見天皇女御で、光厳上皇・光明上皇の生母である広義門院(西園寺寧子)が、後伏見天皇の菩提を弔うため、現在の伏見区桃山町泰長老にあった伏見離宮に隣接して創建されました。慶長16(1611)年、徳川家康によって相国寺の塔頭として現在地に移され再興されたが、元和7(1621)年に焼失。再建後、天明の大火(1788年)で相国寺とともに全焼したが、文政元(1818)年に再建されました。門を入ってすぐの石庭は、峨眉山の庭と呼ばれ、本尊の普賢菩薩の修行地である峨眉山を表しています。また方丈正面には「心」の字をかたどって石や苔が配される「心字の庭」があります。
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品の紹介

  • 頂相・墨蹟・水墨画
  • 唐物・茶道具
  • 夢窓疎石頂相 自賛

    夢窓疎石頂相 自賛

    南北朝時代(14世紀)
    相国寺蔵

    夢窓疎石(1275〜1351)をやや右側面から捉えた半身の肖像。こうした禅僧の肖像画を頂相といい、師匠が弟子へ、仏法を正しく嗣いだことを示す印可状として与えた他、開山忌などの儀式で使用する目的でも制作されました。師僧の顔貌を中心に、その特徴を正確に捉え、人格や精神をも写し取るかのような写実的な描写を特徴とします。 夢窓疎石の頂相は、夢窓に近侍した画僧である無等周位が描いた妙智院(京都市)所蔵の自賛像や、天龍寺二世無極志玄に与えられた慈済院(京都市)所蔵の自賛像などをはじめ、夢窓ゆかりの寺院に諸本が現存しています。本図には、夢窓老齢の顔貌が克明に描写されており、瞼の皺、口角が下がった口元、耳元に長く伸びた白髪交じりの鬢、少し尖った頭部など、諸本と共通する特徴を持ち、同一の紙形(下絵)に基づいて制作されたものと考えられます。僧衣は華麗なもので、茶の衲衣に、牡丹唐草文の金襴袈裟を掛け、鼈甲製の八角環で留めています。田相には団龍文が確認できます。本図も自賛像であり、図上には夢窓の賛と印章が捺されています。

    夢窓疎石(1275〜1351)は相国寺の勧請開山(既に亡くなった高僧を初代住職に迎えること)。円覚寺第5世。南禅寺第9世。天龍寺開山。伊勢に生まれ、後に甲斐に移住する。十七歳のときに奈良の東大寺戒壇院で授戒。建仁寺の無隠円範、来朝僧の一山一寧等に参じた後、嘉元3(1305)年に高峰顕日の法を嗣ぎました。北条氏や後醍醐天皇の帰依を受け、武家の足利政権が誕生すると、尊氏・直義兄弟からの尊崇も受けました。門下からは義堂周信や絶海中津、相国寺を創建した春屋妙葩など、多くの傑僧を輩出し、夢窓派と呼ばれる門派の隆盛の礎を築いています。

  • 墨蹟 「別無工夫」 夢窓疎石

    墨蹟 「別無工夫」 夢窓疎石

    南北朝時代(14世紀)
    相国寺蔵

    「別無工夫」の出典は、中国・宋時代の禅門の逸話集『羅湖野録』。宋代の臨済宗大慧派の禅僧・開善道謙(生没年未詳)の逸話の中で「別無工夫、但放下便是」(別に工夫無し、但だ放下すれば便ち是なり)と収録されています。
    夢窓疎石は、足利尊氏の弟直義の問いに答えた夢窓の問答集『夢中問答』(全93則)の第44則や第58則において、「古人の云わく」としてこの語を引用しています。夢窓はこの問答集で「工夫」という語を説明していますが、仏道における修行の意味で用いています。つまり修行を行うことを意識する時だけが修行ではなく、何ら特別な事ではない日常の万事を修行と捉えよという教えと考えられます。

    夢窓疎石は、行・草書の墨蹟を多く遺していることが知られますが、本書も流れるような墨線の草書体の名筆です。よく見ると「無」の字形が左右反転した鏡文字になっていることがわかります。第一筆目は正規の書き方ですが、草書体で書く場合の第二筆目の「ツ」字状の部分で左右反転して結び目をつくっています。十五世紀の京都五山の禅林サロンにおいては、上下・左右の反転文字等を取り入れた遊戯的な書制作が行われており、十四世紀に制作された本墨蹟は、それらに先駆ける初発的な作例とも考えられます。

  • 墨跡 「動中工夫勝静中百千億倍」白隠慧鶴

    墨跡 「動中工夫勝静中百千億倍」白隠慧鶴

    江戸時代(18世紀)
    相国寺蔵

    「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」と読めます。これは白隠の著作である『遠羅天釜』(おらでがま)巻之上「答鍋島摂州殿下近侍書」中に見られる言葉で、白隠は宋代の臨済宗の禅僧である大慧宗杲の言葉であるとしますが、現在においては白隠の言葉として広く知られています。修行者にとっては、静中とは坐禅の修練、動中とはそれ以外の活動における修練を指し、工夫とはこの場合、その行為への精進と解することが一般的なようです。ただ、要旨としては、直訳的に坐禅修行よりもそれ以外の活動の方が大事だというのではなく、どちらも区別したり選んだりすることなく務めることが最も重要であるとしています。作品としては「中」の字を中心に大きく伸ばし、その左右にそれぞれ「動工夫勝静中」、「百千億倍」を配しています。白隠の墨跡の中では決して大きい作品ではありませんが、中央に伸びた「中」の墨線の迫力や、一字のみを大きく配し他の文字を不均等に左右に分けるという字の配置の妙をもって見る者を圧倒する作品です。

    白隠慧鶴(1685~1768)は、江戸中期の禅僧で駿河の生まれ。臨済禅中興の祖とされます。郷里の松蔭寺にて得度し、諸国行脚ののち信濃飯山の正受老人の法を嗣ぎますがやがて松蔭寺に戻りました。書画をよくし、民衆の教化にもつとめました。

  • 毘沙門天像 雪舟

    毘沙門天像 雪舟

    室町時代(15世紀)
    相国寺蔵 重要文化財

    甲冑に身を固め、左手に宝塔をのせ、右手に戟を持って頭上に高く掲げ、忿怒の形相で邪鬼を踏む。毘沙門天は、仏法を守護する天部の神であり、四天王の一尊でもあり、多聞天とも呼ばれます。勢いのある速筆で、風に翻る躍動的な衣や、甲冑の装飾の細部までを的確に描いています。口をへの字に曲げる邪鬼の表情にユーモラスな雰囲気が見て取れる点は、雪舟の作品としてはやや異色でもあります。山水画家というイメージが強い雪舟ですが、本作以外にも達磨や寿老といった仏教・道教などに関する人物画=道釈人物画に多くの作品を遺しています。

    雪舟の道釈人物画は、絹本に岩絵具の彩色で描く重厚な作品と、紙本に勢いのある墨線を主体に描く作品があり、本作品は後者にあてはまります。中国画に学んだ雪舟は、顔輝(中国・元時代初期の画家)風、梁楷(中国・南宋の画家)風などの様式を用いて人物画の作風を描き分けていますが、本作品の様式は、墨線の肥痩や抑揚を用いた躍動的な表現で名声を得た唐代の画家・呉道子風の道釈人物画の一例と考えられます。

    雪舟(1420~1506)は、室町時代の画僧。備中国(現・岡山県)に生まれ、相国寺で春林周藤に師事して禅の修行を積み、同寺の周文に絵を学びました。その後、大内氏の庇護を受けて周防国に移り、応仁元(1467)年、遣明船に同乗して中国・明に渡り、本場の中国画を学びました。文明元(1469)年に帰国し、周防国のほか豊後国や石見国で活動。没年は永正3(1506)年に87歳で没したとする説が多いですが、文亀2(1502)年とする説もあります。強固で巧みな構築性を備えた雪舟の作品は、狩野派をはじめ後世の日本画壇へ大きな影響を与えました。

  • 芦葉達磨図 伝 賢江祥啓

    芦葉達磨図 伝 賢江祥啓

    室町時代中期~後期(15世紀後半~16世紀前半)
    鹿苑寺蔵

    禅宗の開祖・達磨が、梁(6世紀)の武帝に会い、仏法を説いたが機の会わぬことを悟り、 一本の芦に乗って洛陽を目指して北方に向かって長江を上ったという伝説を描いたもの。宋元時代の禅余画でしばしば見られる図様であり、 それらに倣った日本の禅林でも描かれています。本図の達磨の肉身線および衣紋線は、肥痩のある淡墨線を用いていますが、眼睛、上瞼、口辺、 毛描き等には緊勁な濃墨線が使用され、全体の印象を引き締めています。背景の波の部分には薄墨を刷いて、朱衣を纏った達磨が浮き出るような効果を生んでいます。 画面右上に本紙の欠落を補修した部分があり、ここに画家名が記されていた可能性が指摘されています。
    伝承筆者の賢江祥啓(生没年不詳)は、鎌倉五山の第一位である建長寺の塔頭宝珠院の書記を務めていたため「啓書記」とも呼ばれます。 文明10(1478)年に京都へ行き、足利将軍家の東山御物を管理する同朋衆・芸阿弥(1431~1485)に師事し、東山御物の中国画にも学びました。 明応2(1493)年、再度上洛し、相国寺に住して、京都五山の文人僧たちと交流を重ねました。 祥啓は中国画をはじめ、狩野派など同時代の中央の画家たちの画風を学んでいます。それを自己の様式として咀嚼し、 明朗で力強い楷体山水を描き、清新な画風を関東画壇に伝えました。

  • 柿栗図 牧谿

    柿栗図 牧谿

    中国・南宋時代末期〜元時代初期(13世紀)
    相国寺蔵

    枝についたままの栗が3つと、柿が4つ、輪郭線を用いない水墨の没骨法で描かれていいます。栗の棘は、淡墨の細線による棘の表現の上に、さらに筆の穂先を紙に突き立てるようにして濃墨を点じています。全体として洒脱な画趣を生んでいるが、単なる略画とは異なり、各モチーフを描き分ける墨の濃淡や筆のタッチは、巧みな墨技に裏打ちされたものです。尚、本図には足利将軍家の美術品を管理し、絵師・鑑定家・連歌師等、幅広い芸術分野で活躍した同朋衆の相阿弥(?~1525)による「菓子 右 牧渓筆」という外題、そして江戸初期の大名茶人として著名な小堀遠州(1579~1647)による「菓子之繪 牧渓」の箱書きが付属します。

    牧谿(生没年不詳)は、中国・南宋時代末期から元時代初期に活躍した禅僧画家。伝記については不明な点が多いですが、元時代の画家伝『松斎梅譜』(呉太素編)が詳しく、牧谿の基本資料となっています。禅の師匠は無準師範(1177~1249)で、西湖のほとりにあった六通寺(或いは法相寺)に住していたそうです。大徳寺の国宝「観音猿鶴図」に代表されるような、光と大気の再現的表現のもとに様々な形態を捉える高度な水墨画法は、日本の水墨画家たちが様々に受容しました。中国国内では牧谿画はほとんど伝世しておらず、現在確認できる牧谿の優品はすべて日本に存在しています。足利将軍家が所有する絵画名品目録『御物御画目録』に載る約290点の絵画の内、約4割の109点が牧谿画で占められ、当時の茶会記にも茶席の掛物として頻繁に登場します。中世より日本人の憧れの水墨画家であり、絶大な人気を誇った希有な中国画家です。

  • 砧青磁篠木茶碗

    砧青磁篠木茶碗

    中国・南宋時代(13世紀)
    大光明寺蔵

    砧青磁とは南宋時代に浙江省の龍泉窯で作られた青磁の日本における呼称です。青緑色の澄んだ釉薬のかかったこれらの青磁は日本にも大量に輸入され、茶人を中心に珍重されました。本作品は高台が大きく、胴の部分を薄く削って鎬のような模様を表出させています。釉薬は柔らかな青緑色を表し、鎬の部分からは下地の白色もうっすらと確認できます。また口縁に金覆輪が施されており、作品の釉薬の発色と相俟って端正な美しさをたたえています。

  • 井戸茶碗 銘 瀬田

    井戸茶碗 銘 瀬田

    朝鮮時代(16〜17世紀)
    慈照寺蔵

    井戸茶碗は、朝鮮王朝時代に朝鮮半島で焼成された高麗茶碗の一種です。室町時代後期(16世紀後半頃)より、書院茶から侘茶が主流となると、日本の茶人は、高麗茶碗と呼ばれた朝鮮半島産の日常雑器に着目し、茶の湯に取り入れました。高麗の名は時代を示すのではなく、当時、朝鮮のことを俗に高麗と称していたことによります。高麗茶碗には、様々な釉色と器形があり、日本の茶人が分類して名称をつけています。中でも井戸茶碗は、「一井戸、二萩、三唐津」と言われるように、桃山時代以後、あらゆる種類の茶碗の筆頭に挙げられてきた代表的な茶碗です。

    この茶碗は、ゆったりと曲線を描く端正な碗形の茶碗で、釉色の枇杷色の肌に貫入が入り、高台周りには釉のちぢれた鮫肌状の梅花皮を呈しています。見込みは深く、四箇所の目跡があり、高台は竹の節状で、高台内は山状に突起した兜巾となっています。井戸茶碗の見どころを備え、簡素で詫びた味わいとともに、揺るぎない風格を漂わせています。尚、小堀遠州の三男・権十郎政尹(1625〜1694)が茶碗を納める挽家と内箱蓋表に「瀬田」の銘を記しています。

  • 黒織部沓茶碗

    黒織部沓茶碗

    桃山時代(16世紀後期)
    相国寺蔵

    織部とは桃山時代後半から美濃で焼かれた陶器の一種。形状や文様、釉薬などの点において新機軸を打ち出しました。形状は茶碗に見られる大きく歪んだ形や、蓋物などに見られる扇形、向付のそれぞれ異なる種類の多角形など多様な展開が見られます。釉薬は黒秞や銅緑秞を主に使用し、使う釉薬や文様の有無などによって呼称が使い分けられます。そのなかでも黒織部とは、織部焼の黒い茶碗のうち、釉薬の掛け分けや掻き落としなどによってできた白い下地に鉄絵の具で文様を描き加えた作品のことを指します。

    本作品は黒織部茶碗の典型的な作例で、作為をもって前後方向から歪められた沓型の茶碗です。高台は低く大きめに作られており、Q字のような彫銘が見られます。口縁部は厚みを持って反り返っています。全体的に黒秞がかかっていますが、一部ハの字に掛け外され白地の残る部分もあります。黒地には掻き落としで、白地には鉄絵の具でそれぞれ格子や連続する四角形などの素朴な文様が描かれています。

  • 竹茶杓 千利休作共筒 随流齋箱 千利休

    竹茶杓 千利休作共筒 随流齋箱 千利休

    桃山時代(16世紀)
    慈照寺蔵

     中国から伝来した象牙の薬匙をルーツとする茶杓は、室町時代中期には竹で作られ始め、千利休(1522~1591)によって節を中心に残す「中節」の形式が考案されました。この形式が現在では茶杓の主流となっています。本作品も中節の茶杓で、櫂先は左下がり、蟻腰に刳り込んだ形が特徴的です。共筒にはやや下部に利休の花押が施されています。箱書きは随流齋 (1650~1691、表千家5代家元)、如心齋(1705~1751、表千家7代家元)。また如心齋、碌々齋(1837~1910、表千家11代家元)の添え状が付属しています。

  • 赤楽茶碗 加賀 本阿弥光悦

    赤楽茶碗 加賀 本阿弥光悦

    桃山〜江戸時代初期(17世紀前期)
    相国寺蔵
    重要文化財

    手捏ねによる半筒形の茶碗で、胴は強調した切立形を作り、また外面の諸所に縦に箆を入れることで、懸崖のような鋭い表情を見せています。口縁にも鋭く箆をまわして面取りした箇所があり、また高低をつけて変化を生んでいます。腰にはくっきりと綾をたて、見込みは緩やかに丸みをつけた平らな作行きです。大振りの高台は正円形を削り出しています。白土に黄土を塗って透明釉をかけており、通常の赤土の発色よりも、淡く明るい色調となっています。口辺の一部と、裾から腰にかけて、霞のような白い変化があり、釉景色に富んだ名碗といえます。

    内箱蓋裏に「赤茶碗 加賀光悦於加州仙叟所持 宗乾(花押)仙々斎伝来ス」と裏千家七代の竺叟宗乾の箱書きがあり、加賀前田家に仕えた仙叟宗室所持であったことを伝えています。また外箱表には「光悦作 かゝ 茶・」と、この茶碗を一時所蔵した松平不昧の箱書きが付属します。

    本阿弥光悦(1558~1637)は、刀剣の鑑定、研磨、浄拭を家業とする京都の本阿弥光二の長男として生まれました。桃山から江戸初期にかけての京の上層町衆であり、能書家として寛永の三筆の一人に位置づけられています。特に、俵屋宗達の金銀泥下絵に散らし書きした和歌巻の数々が知られています。他にも陶芸、漆芸、出版(嵯峨本)、茶の湯などに携わり、幅広い芸術分野で指導的役割を果たしました。元和元(1615)年には、徳川家康から鷹ケ峯の地を拝領して、そこに本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住。光悦が作陶を開始したのは、この鷹ケ峯への移住後、60歳を過ぎたころからであったと考えられています。樂家2代の吉左衛門常慶とその子吉兵衛(樂家三代道入、ノンコウ)を師として、彼らの協力を得ながらの作陶でしたが、光悦の茶碗は、利休好みの無作為の楽茶碗とは異なり、作為を働かせた個性的で自由無碍な造形に特徴があります。

  • 色絵龍田川透かし鉢 尾形乾山

    色絵龍田川透かし鉢 尾形乾山

    江戸時代(18世紀)
    慈照寺蔵

    赤、黄、緑のカラフルな楓の葉が水に流れる情景が、鉢の内外面に表されています。古来、紅葉の名所として和歌に詠まれてきた龍田川の意匠です。口縁が外反する薄手の反鉢ですが、その口縁部には楓や水流の文様に合わせて刻みを入れ、口部には文様に合わせて透かし彫りが施された斬新な器形です。視点の位置や角度によって、内と外の意匠が様々に呼応し、変化に富んだ景色が現れます。秋麗の情趣を、琳派風の大胆な意匠で表現した乾山得意の色絵透かし鉢の作例です。底部には長角の白化粧地に「乾山」銘が款されています。

     尾形乾山(1663〜1743)は、京の高級呉服商・雁金屋の三男として生まれました。兄に絵師の尾形光琳がいます。元禄2(1689)年、仁和寺の南に習静堂を構え、この頃野々村仁清に学んで陶工となります。元禄7(1694)年、二条綱平より京の鳴滝泉谷の山荘を譲り受け、元禄12(1699)年、乾山焼を開窯。その場所が都の北西、乾の方角にあたることから乾山と号しました。その後、正徳2(1712)年には二条丁子屋町に移転。晩年、69歳になる享保16(1731)年に江戸へ下向、晩年は絵画制作も行いました。81歳にて同地で没します。仁清の陶法を継承するとともに、元来の文人的資質から漢詩や漢画的主題の絵付を積極的に取り入れ、また華やかな琳派風意匠も得意とするなど、文人趣味や王朝の美意識を反映した雅陶を追求しました。

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連イベント

  • 講演会Ⅰ「相国寺の歴史と寺宝」
    講師:本多潤子(相国寺承天閣美術館学芸員)

    日時: 2022年11月27日(日) 14:00~15:30
    会場: 大分県立美術館 1階 アトリウム
    定員: 200名
    参加費: 無料(要事前申込)

    詳細・お申込みはこちら

  • 講演会Ⅱ「相国寺、革新と伝統」
    講師:田沢裕賀(大分県立美術館 館長)

    日時:2023年1月14日(土) 14:00~15:30
    会場:大分県立美術館 2階 研修室
    定員:60名
    参加費:無料(要事前申込)

    詳細・お申込みはこちら

  • 坐禅会 -こころを整理する
    (イス坐禅+講話)午前の部 

    日時: 2023年1月9日(月・祝)
       午前の部:11:00~12:00
    会場: 大分県立美術館 2階 研修室
    定員: 各回20名
    参加費: 無料(要事前申込)

    詳細・お申込みはこちら

  • スライド・トーク
    「それいいね!楽しむ近世美術」
    講師:宗像晋作・柴﨑香那(当館学芸員)

    2022年12月4日(日)14:00~15:30
    会場:大分県立美術館 2階 研修
    定員:60名
    参加費:無料(要事前申込)

    詳細・お申込みはこちら

  • 「大本山 相国寺と金閣・銀閣の名宝」
    学芸員によるギャラリートーク

    日時: 2022年12月3日(土) ~ 2023年1月21日(土)
       いずれも各日14:00~15:00

    会場: 大分県立美術館 3階 展示室B・コレクション展示室
    参加費: 無料 ※要展覧会観覧券
    申込: 不要(要展覧会観覧券)

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大分県立美術館 OPAM

「五感のミュージアム」「出会いのミュージアム」

分県立美術館 OPAM

  • 「五感で楽しむことができる」美術館

    様々な視点、感覚を通じて、感性や創造性に訴え、訪れる人が五感で楽しむことができる美術館を目指します。

  • 「自分の家のリビングと思える」美術館

    美術館というと敷居が高いイメージがありますが、来館者が自宅のリビングルームと感じられるような、気軽に立ち寄れる美術館を目指します。

  • 「出会いによる新たな発見と刺激のある」美術館

    大分と世界、古典と現代、美術と音楽など、様々な「出会い」をテーマにした企画展をとおして、新たな発見や刺激を受けることができる美術館を目指します。

  • 「県民とともに成長する」美術館

    次代を担う子どもたちから高齢者まで、すべての年齢層の県民と一緒に成長する美術館を目指します。

美術館ご利用案内

開館時間 10:00~19:00 ※金曜日・土曜日は20:00まで(入場は閉館の30分前まで)
休館日 原則無休(館内点検等による臨時休館を除く)
観覧料 コレクション展
一般 300(250)円 大学生・高校生 200(150)円
※( )内は有料入場者20名以上の団体料金
連絡先 大分県立美術館
〒870-0036 大分市寿町2番1号
Tel:097-533-4500
Fax:097-533-4567
E-mail:info@opam.jp
※中学生以下は無料 ※高校生は土曜日に観覧する場合は無料 ※県内の小学・中学・高校生(これらに準ずる者を含む)とその引率者が教育課程に基づく教育活動として観覧する場合は無料(要申請) ※学生の方は入場の際、学生証をご提示ください。 ※障がい者手帳等をご提示の方とその付添者(1名)は無料 ※企画展は別料金

団体利用申込についてはこちら

アクセス

○JR大分駅府内中央口(北口)から
【バス利用】
・JR大分駅前7番乗り場から、大分交通バス 青葉台線(田室町経由)23番、24番/県立図書館線(田室町経由)3番/
スカイタウン高崎線(西春日町経由)8番に乗車、「オアシスひろば前」下車 徒歩すぐ
・JR大分駅府内中央口7番乗り場、またはJR大分駅上野の森口前から、中心市街地循環バス「大分きゃんバス」に乗車、
「オアシスひろば前(県立美術館南)」下車 徒歩すぐ

【徒歩】
セントポルタ中央町、竹町商店街 経由で約15分

○自家用車
大分ICから車で10分

アクセスマップ

ご利用のお願い

・ペットを連れての入館はご遠慮ください。(身体障害者補助犬法上の補助犬を除く)

・雨傘、日傘は館内に持ち込めません。傘立てをご利用ください。

・大きな荷物はロッカーにお預けください。

・指定場所以外でのご飲食はご遠慮ください。

・敷地内は館内外共に全面禁煙です。

・館内にはゴミ箱を設置しておりません。ゴミはお持ち帰りください。

・車椅子やベビーカーをご希望の方は、1階インフォメーションにお越しください。

・展示室内の温湿度と明るさは、展示作品に適したものとしています。ご理解のうえ、体温調節等ができる服装でご来館ください。

・展示作品および展示ケースにはお手をふれないでください。

・展示室内でのカメラ、ビデオ、携帯電話等による撮影は特別な表示がある場合をのぞきご遠慮ください。

・展示室内での筆記具は、鉛筆のみをご使用ください。

・展示室内での携帯電話などによる通話はご遠慮ください。

・危険物品等の持込みはご遠慮ください。

・防犯のため監視カメラを設置しています。

・その他係員の指示に従ってください。